今朝、わが家から望む富士
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けふの富士山。我が家から望める富士は、白雪をかぶりて小春の太陽に映えたり。
かたや、我が家から望めるスカイツリー。蒼天にすくと聳えたり。
居ながらにして、富士とスカイツリーを眺望さるるは、極上の幸運かとぞ。
てふことは、富士から我が家を見ることの能ふに他ならず。
またスカイツリーからも我が家を見ることも能はずや。
富士とスカイツリーから、余の家を眺望さるること、晴れがましくもあり、照れくさくもあり。
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けふの天声人語に、子規の句を引けり。
生身魂(いきみたま)七十と申し達者なり
いでや、古希てふ言葉は、いにしよりあれど、生身魂とは初めて聞きたるぞ。
生身魂なんどと云はるるには、あまりに世俗にして、あまりに青二才の我なるに。
余が生身魂の称号受くるには、あと少なくとも30年から50年の修行の必要ならむとこそ。
そこで返句を。
不肖我 生身魂まで 100光年
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ねがはくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ 西行
余の人生の残り時間は、いくばくのものなりや。厚生労働省の生命表見るに、平均余命は15年ほどと知る。
大病をせず、寝たきりにもならず生きつるとて、いずれは終焉を迎ふること避けられず。
その後、余は永遠の眠りにつくとて、現世に残したるお骨なむ、いかにすべき。
余は墓石の下に入ること、辛気くさき感ありて、気が進まず。
海への散骨てふ方法あれども、費用と手間ひまかかり、墓標の残らぬこと、いと悪ろし。
そこで余が選びたるは、樹木の下に眠ることなるぞかし。
それもサクラの木の下ならば、さらに良からむとこそ。
一昨日、その場所を見て来たり。
国立公園内の絶景の地なり。
この花の下にて眠り続くるのも、また楽しからずや。
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いでや、気がつけぱ余は元日以来、一度もブログを更新せざりけるは。
書くことの無きにあらずして、書くことのあまた有り過ぎたれば、かへって書くこと能はず。
2月にまったき更新の無きも、不恰好なれば、けふは雪梅と題する方岳の漢詩を掲載して濁すこととす。
有梅無雪不精神
有雪無詩俗了人
薄暮詩成天又雪
与梅併作十分春
梅有りて雪無ければ精神ならず雪ありて詩なければ人を俗了す
薄暮詩成って天又雪ふる
梅と併せ作す十分の春
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こは夢か、うつつか。
数十年もの間、見慣れたる光景の、いま目の前に広がるは、いみじう似たるも、同じにあらず。
さらば異なるものを見つるにや、と思へど、なでかデジャ・ヴュの感強くして、やはり、かの光景の鳥瞰的引き伸ばしかとぞ。
はつかの間に、余は別世界への転生的ワープを体験したり。
一日一日、生起している事柄の、なにやら現実とも思へぬ展開は、夢ごこちにてぞ過ぎゆける。
これも現、かれも現。言ひ換へれば、これもかれも、一つところに定むることのなき、時空の奔流の残影ならむ。
ふと、西を見やれば、いでや、思ひもかけずそは富士山にあらずや。
この世界にても、何物にも遮らるることなくして、富士の高嶺を望むことの能ふるは、いとめでたきことかな。
まずは、この僥倖を喜び愛ずるものなり。
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける (山部赤人 万葉集)
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ (山部赤人 新古今集)
かたや、あれに朧に見ゆるは、東京スカイツリーにあらずや。
時間的空間的ワープは、異なる複数世界の同時進行的存在を説く並行宇宙論をも想起させて、余は日々、驚きと発見の連続なるぞかし。
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いま、東京スカイツリーの天望回廊にきたりて、ここよりモブログせむとするなり。
梅雨入りの直後なれば天気が心配なれど、運よく雲に入ることもなく、眺望は良好なり。
地上450メートルから眺むる景色は最高なるぞかし。
富士山は見えねど、東京ドーム、東京タワー、東京湾なんどを望める。
あたかも着陸直前の飛行機から見る地上の如し。
いったん上がりたれば、こちらのもので、何時間居たるとも自由にて、制限のなきは、いみじう善きことかな。
BANYUU
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