戦後日本の原点は、8・15なりしや。さなりと云ふ者少なからず居れど、おほかたの日本人にとりては、かの6・15こそ、今日の状況に脈々と続きなしたる原点ならめ。
60年安保から50周年を迎へたる今年は、6・15の惨劇にて22歳の命を落としたりける樺美智子さんの、50周年の命日なるぞかし。
今日の我が国の抱へたる諸問題は、その根源たどりなば安保条約にゆき着くこと必定なり。
鳩山政権崩壊のきっかけとなりたる普天間問題も、そは日米安保の抱えたる矛盾にほかならず。
60年安保の50周年にあたりて、かの日、国会構内にて機動隊との激突の中、夭折したりける樺美智子さんを追悼せむとて、当時の様子なむ、ここにささやかに書きてみむとす。
昭和35年6月15日。この日は、私鉄の時限ストを中心とせる静かなる全国統一行動となるべく、おほかたは夕刻以降の大惨劇を予想だにする者のなかりける。
はつかに報道陣の中に、この日の警官の武装の、いつにもまして様子異なるに気付き、「あやしのことかな。何ごとの起こるにや」といぶかる声ありけるとぞ。
午後4時ころなりけるにや。全学連主流派のおよそ7000人の学生たち、国会南通用門に集ひたるに、「いざいざ、国会構内に入りて抗議集会を開かむ」とリーダーなむ呼びかけたりける。
学生たちの、南通用門扉激しくゆすりつづけたれば、やがて扉の開かれたりて、門柱からはずれ落ちぬ。
内側に警官側のトラック並べられたるが、学生らは綱をかけて車体動かさむとせり。
別の学生たちは、有刺鉄線の柵を切り破り、警官に投石すなどして、殺気立ちたる空気流れ始めたり。
警官側、構内の消火栓からホース引きて、学生たちへの放水ぞ開始せる。
塞ぎたりけるトラックの引き出されたれば、構内への行く手開きたりて、学生たち構内に足踏み入れたりけり。
こは午後7時5分ころなる。
警官隊、一瞬、後に引きたりて、不気味なる静けさの、なでか不穏なるもの漂ひたりけり。
その時のことなむ。方面警察隊の後方に待機したりける第四機動隊の警官たち、異様なる叫びあげたりて警棒振りかざし、学生たちに向かひて突き進みたるは。
南通用門入口付近は大混乱に陥り、学生たちの崩れるやうにして押し返され、あちこちから悲鳴上がりて、修羅場となりぬ。
樺美智子さんの、隊列の先頭付近に居りけるが、機動隊の襲撃と後から押して来たりける学生との板ばさみとなりて、倒れたるところを、踏み潰されたるとぞ。
この時の警官の襲撃のすさまじさ、げに語るところを知らず。
警棒は薪を叩き割るやうに学生たちの頭や肩につぎつぎと振り落とされ、学生たちは棒切れや投石にて抵抗せしに、長くは続かざりけり。
学生たちの頭から血を流して倒れたるを、警官たち2、3人がかりにて引きずりて行きたり。
逃げまどふ女子学生の後からも、容赦なく警棒の襲ひかかりたるを。
血みどろになりて倒れたる学生に、警官たち片端から手錠ぞかけたる。学生たち、いつたんは構外に押し出されたり。
この中を、女子学生の死にたりけることの、伝へられたりければ、学生たちの憤り、ひときは高ぶりて、再び構内に入り始めたり。
午後8時半ごろなりけむ。社会党議員団の仲介によりて、構内にて異例の抗議集会ぞ開かれたる。
集会後、退去させむとする警官と、正面に向かはむとする学生との間にて、さらなる激しい衝突となりぬ。多くの学生たちの血だらけになりて、参院議員面会所地下に連行されゆけり。
かけつけた救護班やマスコミの記者、カメラマンらも、警官たちの壁になむ阻まれて、え近寄ること能はざる。
通用門わきの路上には、負傷せるも連行免れたる学生たちの、屍の如く累々と横たはれり。
通りがかりの車や、報道陣の車の中には、こを見かねたりて負傷せる学生たちを、病院に運びゆきけるとぞ。
時計の針は、かくするうちにも午前0時を回りて、日本で最も長かりける6・15は、怒りと悲しみのうちに終わりぬ。
我ら、この日ありける出来事と、樺美智子さんのこと、ゆめゆめ忘るべからず。
(一番上の写真、仰向けに抱へられたる女子学生の右側、こちら向きの女子学生に左腕を持ち上げられたる格好にて倒れたるが樺さんなり。この時すでに息絶へたるとぞ。三番目の写真なむ、翌6月16日、国会南通用門前に設けられたる祭壇前にて、樺さんを悼むあまたの人たち)
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